古代人は疫病とどう戦ったのか?日本神宝の力に迫る!

2020年12月24日

三種の神器を日本に持ち込んだスサ一族、それを奪いあう隠された歴史、そして歴史は勝者によって造られた物語である。古代日本には、多くの氏族がおり、それぞれに王朝が創られていました。後に天皇を象徴とした日本統一が行われるのですが、ある氏族の末裔に効いた、歴史の裏話の一説をご紹介します。

【疫病との闘い】

開化天皇(第9代)の時代、須佐之男を始祖とする出雲の王は、出雲振根であった。また、この時代、開化天皇と出雲振根の妹の間に、第三皇子、大根王(八瓜入日子王)が誕生していたのだった。ある日、開化天皇は重い病気にかかり、なかなか治癒しなかった。それを出雲振根が、先祖から受け継がれた身体調整法、薬石、霊水によって病を封じ込めたのであった。また、崇神天皇(第10代)の時代、世は天変地変がおこり、疫病が蔓延した。国民の半ばは死亡し、多くの民は故地を離れ彷徨ったとされる。その時もまた、この国の難を救ったのは、出雲振根の一族であった。ある者は、身体調整法(息呼せ)を使い、ある者は薬石を調合し、ある者は霊水を運び、東弄西走病人の看病につとめた。人々は、出雲振根とその一族に対し、深い信頼と尊敬の念を抱くようになった。

【民族との闘い】

崇神は心の底で危機感を覚えた。出雲振根一族を滅ぼさない限り、国民をまとめられないと考えた。出雲振根と大根王の弾圧を企てたのである。そして、10代崇神天皇60年に起きた事件に繋がる。日本書紀の内容を簡単にまとめるとこうだ。当時、出雲振根は、出雲大神の宮を祭り、十種の神宝を管理していた。朝廷は、出雲振根の留守に現れ、留守を預かっていた弟(飯入根)に対し、神宝を献上するように命じた。弟はそれ従い、神宝を天皇に献上した。後日、弟のその行為に対し、怒った振根が弟を殺した。弟を殺した振根を朝廷が誅伐したということだ。しかし、実際とは異なるという。振根は、朝廷の策略を知り、命からがらその場を逃れたのだ。そして、出雲族(物部氏)とともに出雲を離れ、追撃してきた朝廷側と戦い続け、箱根、武蔵野、千葉県小見川まで逃れた後に敗北したのだった。一族は弾圧され続けたという。身体調整法を会得してる者、薬石の製造法を知っている者、逆らう者の腕や手を切られた。その数は数千人に及んだという。このことによって命を落とした者達を、佐原に埋葬し、その地に「大根神社」として村人が建立し、後に「切手神社」と名が変わったが、今は神社の由来を知るものはいなくなった。戦場に埋葬された一族の古墳も石碑も、今では何者かに抹消され残っていない。出雲王朝は、崇神天皇の命により長い年月をかけ、歴史から抹殺されたのだった。一族の残党は、小見川の戦い以後、千葉の山奥深く、人里離れた処に隠れ住み、名乗ることなく息を潜めるように、2000年余りを生きたという。

歴史は、争いと侵略の繰り返しだったと思います。その裏側で、受け継がれた古代の技術があるのであれば、次の時代に残したいと願うばかりです。

疫病と戦う術を現代に繋げたい。コダイとミライより